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幸地按司墓
種類 | 未指定文化財 |
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所在 | 西原町字幸地 |
幸地按司墓は、かつて幸地グスクの城主 熱田子の墓だといわれている。『遺老説伝』(18世紀前半)によると、「往昔、熱田子は今帰仁按司の子らに滅ぼされた。その墓は、石嶺御嶽の東にある。子孫らは翁長村にあって、その墓を守っている」という。
かつて幸地は、城村、熱田村、東風平村の3つに分かれていた。城村は、幸地グスクの北東に集落が存在し、創始家は仲門家である。熱田村は古島にあり、その末裔が知念門中である。また、東風平村は小字東風平原にあったが、一部は東風平間切東風平村に移った。
幸地按司墓は、かつて存在していた熱田村のほぼ中心部を占める丘の南斜面に立地していたことになる。この墓は、丘の頂上部を形成している琉球石灰岩の岩陰を巧みに利用して造営されたもので、正面入口がきれいな石積みによって閉じられている。墓の前庭部には石が敷かれている。
ニービ(砂岩)を基盤とする丘の斜面部に横穴を掘り込んで造った墓の多いこの地域では、岩陰を利用し、石積みによって閉ざす墓は極めて珍しい例である。