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西原はみだしSTORY

西原町が『西原』となった訳

西原町が『西原』と付けられた訳は、首里城と関係があります。『西原』とは、『首里城の北側に広がる原っぱ』から名づけられたのですが、じゃあ『北原』じゃないのはなぜ?じつは沖縄方言で北のことを『ニシ』といい、そこから『ニシの原っぱ』に西の漢字かがあてられ、西原と呼ばれるようになったのです。

西原町にいた、甲子園の星

2008年度高校生ドラフト3順目で横浜ベイスターズから指名を受け入団した大田阿斗里(登録名:阿斗里)投手。帝京高校時代の2007年春の選抜大会では史上2位の記録となる1試合20奪三振を記録するなど大活躍した大田投手は、実は3歳まで西原に住んでいたのです。将来が期待されている投手なので、みんなで応援しましょう。

内間御殿のさわふじとは?

内間御殿の門前に悠然とそびえたつ1本の巨木。それが名木『さわふじ』です。さわふじはサガリバナ科の常緑高木樹で、この木は樹齢約470年以上のときを重ね『沖縄の名木100選』にも選ばれています。夏の夜になると独特の甘い香りを漂わせて花が咲き、その花の姿が鳩目銭をぶら下げているのに似ていることから『ジンカキギー(銭掛け木)』なんて呼ばれたりもします。

西原にもねずみ小僧が!?

『運玉森』にはその昔、森の中に運玉義留(ウンタマギルー)という盗賊が隠れ住んでいたという言い伝えがあります。盗賊と聞くととても怖いイメージですが、運玉義留はお金持ちばかりを狙い、盗んだお金を貧しい人々に分け与えたと言われています。まさに、西原版ねずみ小僧!しかしながらこの盗賊、文献など記録には残っていないため、存在したかは不明です。

地図にない!?『坂田』

坂田小学校や坂田交差点など、『坂田』という地域は地域ではとてもなじみある名前ですが、実際は地名や字名に『坂田』というのはないんです。なぜこんなにも『坂田』の名前が広まったのか。この地域は正式には『坂田升(はんたまし)』という小字がついており、そこから坂田をとって戦後すぐ『坂田小学校』が開校しました。この時点ではまだ誰も坂田という呼び方を使っていなかったのですが、コレをきっかけに小学校の周辺地域を総称して『坂田』と呼ぶようになりました。

西原はこんなにデカかった!

現在の西原町は3市2町1村に囲まれた約16km²の町ですが、古琉球といわれている10世紀から17世紀の間には、今の石嶺や天久、泊、安謝までもが西原間切と呼ばれる地域でした。さらに、中城湾から約14kmにある津堅島も西原間切だったというから、相当広い行政地域だったといえるでしょう。

西原に飛行場があった!?

西原町の海岸沿いに大きな石油タンクがあります。この場所、かつては軍用の飛行場があったのです。この飛行場は昭和19年に日本軍が建設に着手したのですが、途中で放棄。跡地を米軍が接収し、西原飛行場という名の爆撃機用飛行場として利用していました。しかし米軍基地の統廃合により返還され、その跡地は現在。工場や畑に姿を変えています。

ムーチーの日が違う!

沖縄には旧暦の12月8日にムーチーと呼ばれるお餅を食べ、健康と長寿を祈願する習慣がありますが、西原の東側の地域はこの行事を1日早く行います。この理由は諸説ありますが、西原から首里に向かう道程で、そこに住む妖怪がこの日を狙って餅を腐らせるから1日早くなった、餅売りの男が大変ガチマヤー(食いしん坊)で、ムーチー日までに自分の作った餅を全部食べてしまうから早まったなどの説が有力です。

懐かしの香り

毎日たくさんの人でにぎわうサンエー西原シティのある場所には、かつて巨大な製糖工場がありました。1~3月になると絞り汁の香りがただよい、それが製糖期を迎えた合図でした。最盛期には約6万5千トンのさとうきびを処理していましたが、1999年に工場は閉鎖、その跡地に現在のサンエーがたったという訳です。また昔は見渡す限りにさとうきび畑が広がっていたのですが、現在収穫量はピーク時の10分の1以下になってしまいました。

西原の代表産業は?

さまざまな特徴を持つ西原町ですが、西原は製造業のまちでもあるのです。製造業の出荷額は2位の約5倍、1878億円を超え、県内でダントツの1位!さらに今後も増加傾向にあります。これらの工場は主に中城よりの海岸地域に固まっており、他地域とはまったく違った工場だらけの景色が広がっているのです。