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内間御殿

内間御殿
種類 国指定史跡
指定日 2011(平成23)年2月7日
所在 西原町字嘉手苅

内間御殿は、第二尚氏王統の始祖金丸(のちの尚円王)が内間地頭に任ぜられたときの旧宅跡地に、尚円王没後190年を経て建てられた神殿(東江御殿)を中心とした祭祀施設のことである。

金丸は、1415年、伊平屋間切諸見村に平民の子として生まれた。1438年、24歳のとき妻や弟らと共に島を出て、国頭間切宜名真村を経て首里に上った。そして越来王子(のちの尚泰久王)の家臣となり、1447年、尚泰久の推薦で家来赤頭、38歳には、黄冠の位まで昇進した。1454年に内間領主に任ぜられ、1459年、45歳のとき、金丸は御物城御鎖側の位に就いた。その後、金丸は尚泰久王のあとを継いだ若い尚徳王と対立し、1468年、内間村に隠遁。翌年、尚徳王が亡くなり、群臣から推され金丸が王位に就いた。

その後1476年に尚円王は在位7年で死去する。それから190年後の1666年に琉球王国の摂政に就任した向象賢(羽地朝秀)の国王(尚質王)への進言から、金丸の旧宅跡地に茅葺の神殿(2間×3間)東江御殿が建てられた。 1689年には、大美御殿によって東江御殿は樫木を使った瓦葺の神殿に改築された。

1706年、東江御殿の北側に2間半×3間の茅葺きの神殿(西江御殿)が西原間切の人民らによって普請された。1735年、本殿の東江御殿に賊が入り、御神体(宝枕)が盗まれた。尚敬王は自ら家臣を引き連れ、捜索に当たり、ついに田んぼの中からその宝枕を見つけ出した。それを契機に1736年、東江御殿の屋敷囲いも竹垣から石垣積みに改修され、本門(瓦葺の屋根を載せた門)と小門(正門のわきにある通用門)を設けた。

1737年には、西江御殿も瓦葺に改められ、屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされた。1738年、尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また、尚敬王の撰文になる「先王旧宅碑」の石碑が内庭に建てられた。このように近世期に、金丸の旧宅が国家的聖地として整備されていった。

沖縄戦で両御殿は消失したが、石垣や建物の基壇、先王旧宅碑の台座などの石造遺構は残っている。戦後の1951(昭和26)年、ウフヤ一門やハワイ在住の一門らによって東江御殿跡にトタン葺の拝殿が再建された。1974(昭和49)年、現在のコンクリートブロック造りのトタン葺拝殿(2間×2間半)に改修された。

戦後、西江御殿もイリー一門によって木造トタン葺の拝殿が再建された。

内間御殿

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